乙巳(いっし)の変(=大化改新の始まり)のあと、天皇は斉明天皇という女帝に移ります。斉明天皇は中大兄皇子、すなわち天智天皇の母親で、孝徳天皇に譲位するまで皇極(こうぎょく)天皇として皇位についていたんですね。斉明天皇と中大兄皇子は政治の本拠を飛鳥の地に戻し、壮麗な宮殿をつくったといわれます。
近年発掘された遺跡でも、その不思議な造作が大変注目されていますが、宮殿は水の仕掛けをふんだんに使ったものらしい。このような壮大な建築で天皇家の権威を全国的に広めたのでは、と考えられているんですね。
しかし、ここで唐と高句麗・新羅・百済の三国をめぐって緊張していた朝鮮半島の情勢が一段と複雑に変動します。
唐は新羅と結んで、今度は百済を攻める。百済は倭国との同盟を求めて、以前から王子の余豊璋(よほうしょう)を人質として日本に送っていました。倭国は遣唐使を派遣して唐と調停を図ったりもしますが、660年、百済は突然黄海を渡って現れた唐の水軍によって、あえなく滅ぼされてしまいます。
しかし、唐の統治に対して百済の有力貴族らは反乱軍を結成し、倭国にも王子の送還と救援の軍を要請します。それに答えて中大兄皇子は斉明天皇とともに飛鳥を出て、軍隊を率いて、筑紫(九州)へ移るんですね。
筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となりました。同行者には大海人皇子(おおあまのみこ)、額田王(ぬかたのおおきみ)、中臣鎌足ら政界の主要メンバーと多数の従者です。まるで飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となりました。
しかし、福岡県の朝倉宮に来て2カ月後、斉明天皇は68歳で急死してしまいます。中大兄皇子は皇太子として喪(も)に服したまま、戦いの指揮をとり、662年、王子・余豊璋(よほうしょう)に5千人の兵をつけて朝鮮半島へ送りました。
帰国した豊璋は新たな百済王として有利に戦いを進めますが、翌663年、百済軍の内紛により一挙に弱体化し、あせった中大兄皇子は2万7千人の軍を送ります。
こうして倭国・百済連合軍と唐・新羅の連合軍が激突することになりました。白村江(はくそんこう)河口で行われた2日間の海戦で、唐・新羅軍の挟み撃ちにあった倭国・百済軍は軍船400隻を焼失、大敗します。これが古代史に残る白村江の戦いですね。日本の最初の国際戦争は最大の敗戦となったのです。
百済王(豊璋)は逃亡し、ここに百済は完全に滅亡します。倭国が朝鮮半島にもっていたさまざまな拠点からの撤退も余儀なくされた。さらに対馬海峡の対岸まで、唐の領地になってしまった中で、倭国は唐・新羅連合軍の進軍に対して、急きょ防衛体制を整える必要に迫られました。
そこで中大兄皇子は、百済からの亡命者がもたらした技術を用いて、九州から瀬戸内海にかけて、戦略拠点に朝鮮式の山城(やまじろ)をたくさん造ります。また、博多湾からの上陸軍を防止する水城(みずき)を築き、防衛拠点となる大宰府(だざいふ)を整備する。さらにこれらの防備に必要な兵力を確保するため、防人(さきもり)の制度を定めるんですね。
667年には、都を飛鳥から近江大津宮に移しました。日本海、瀬戸内海からの攻撃に備える要衝(ようしょう)です。ここで中大兄皇子は天智天皇に即位するわけです。
天智天皇はこの近江の地で、西国を中心に広い海岸線の防備を固めるという国造りを進めました。そのとき必要になるのは何でしょうか? 多数の人々を組織的に、強力にまとめて国力を増大することですね。大化改新で示された中央集権国家がさらに徹底されることだったのです。
ただし、これまで地域の運営主体だった豪族の反発は当然強かった。そこで、近江遷都は豪族たちの勢力が強かった飛鳥の地から離れるという意味もあったのですね。
こうして天智天皇が中央集権国家の象徴的な制度として670年につくったのが、庚午年籍(こうごねんじゃく)です。これはすべての国民を豪族の使役者ではなく、国家の一員として登録する台帳です。現在の戸籍の基礎となりました。大化改新のときに掲げた「公地公民」が形となったんですね。
遺跡の発掘などから、この統一的な戸籍は、少なくとも九州から関東まで実施されていたことがわかってきたようです。戸籍によって村落を把握するためには体系的な法律が必要ですね。それが「近江令(おうみりょう)」であったといわれています。近江令がほんとうに発布されたかは確認されていませんが、実際の戸籍制度施行を支えた統一的な法体系はあったということですね。
遷都から4年後、671年に天智天皇は近江大津宮で病気により没します。天智天皇は国際戦争という場面をへて、国をまとめる方向を探っていたリーダーでしたが、このとき、まだ国の形が完全に定まっていません。そこで中央集権を進めるか、豪族の連合国家の形をのこすかをめぐって、今度は倭国全体が二つに分かれて戦うことになったのです。それが古代最大の内乱、壬申(じんしん)の乱の勃発です。
では、次回、その1カ月にわたる激戦をお話ししましょう。
【次回は7月29日(木)、03 「日本」の出現、Y=天武天皇の1回目です】
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乙巳(いっし)の変(=大化改新の始まり)のあと、天皇は斉明天皇という女帝に移ります。斉明天皇は中大兄皇子、すなわち天智天皇の母親で、孝徳天皇に譲位するまで皇極(こうぎょく)天皇として皇位についていたんですね。斉明天皇と中大兄皇子は政治の本拠を飛鳥の地に戻し、壮麗な宮殿をつくったといわれます。
近年発掘された遺跡でも、その不思議な造作が大変注目されていますが、宮殿は水の仕掛けをふんだんに使ったものらしい。このような壮大な建築で天皇家の権威を全国的に広めたのでは、と考えられているんですね。
しかし、ここで唐と高句麗・新羅・百済の三国をめぐって緊張していた朝鮮半島の情勢が一段と複雑に変動します。
唐は新羅と結んで、今度は百済を攻める。百済は倭国との同盟を求めて、以前から王子の余豊璋(よほうしょう)を人質として日本に送っていました。倭国は遣唐使を派遣して唐と調停を図ったりもしますが、660年、百済は突然黄海を渡って現れた唐の水軍によって、あえなく滅ぼされてしまいます。
しかし、唐の統治に対して百済の有力貴族らは反乱軍を結成し、倭国にも王子の送還と救援の軍を要請します。それに答えて中大兄皇子は斉明天皇とともに飛鳥を出て、軍隊を率いて、筑紫(九州)へ移るんですね。
筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となりました。同行者には大海人皇子(おおあまのみこ)、額田王(ぬかたのおおきみ)、中臣鎌足ら政界の主要メンバーと多数の従者です。まるで飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となりました。
しかし、福岡県の朝倉宮に来て2カ月後、斉明天皇は68歳で急死してしまいます。中大兄皇子は皇太子として喪(も)に服したまま、戦いの指揮をとり、662年、王子・余豊璋(よほうしょう)に5千人の兵をつけて朝鮮半島へ送りました。
帰国した豊璋は新たな百済王として有利に戦いを進めますが、翌663年、百済軍の内紛により一挙に弱体化し、あせった中大兄皇子は2万7千人の軍を送ります。
こうして倭国・百済連合軍と唐・新羅の連合軍が激突することになりました。白村江(はくそんこう)河口で行われた2日間の海戦で、唐・新羅軍の挟み撃ちにあった倭国・百済軍は軍船400隻を焼失、大敗します。これが古代史に残る白村江の戦いですね。日本の最初の国際戦争は最大の敗戦となったのです。
百済王(豊璋)は逃亡し、ここに百済は完全に滅亡します。倭国が朝鮮半島にもっていたさまざまな拠点からの撤退も余儀なくされた。さらに対馬海峡の対岸まで、唐の領地になってしまった中で、倭国は唐・新羅連合軍の進軍に対して、急きょ防衛体制を整える必要に迫られました。
そこで中大兄皇子は、百済からの亡命者がもたらした技術を用いて、九州から瀬戸内海にかけて、戦略拠点に朝鮮式の山城(やまじろ)をたくさん造ります。また、博多湾からの上陸軍を防止する水城(みずき)を築き、防衛拠点となる大宰府(だざいふ)を整備する。さらにこれらの防備に必要な兵力を確保するため、防人(さきもり)の制度を定めるんですね。
667年には、都を飛鳥から近江大津宮に移しました。日本海、瀬戸内海からの攻撃に備える要衝(ようしょう)です。ここで中大兄皇子は天智天皇に即位するわけです。
天智天皇はこの近江の地で、西国を中心に広い海岸線の防備を固めるという国造りを進めました。そのとき必要になるのは何でしょうか? 多数の人々を組織的に、強力にまとめて国力を増大することですね。大化改新で示された中央集権国家がさらに徹底されることだったのです。
ただし、これまで地域の運営主体だった豪族の反発は当然強かった。そこで、近江遷都は豪族たちの勢力が強かった飛鳥の地から離れるという意味もあったのですね。
こうして天智天皇が中央集権国家の象徴的な制度として670年につくったのが、庚午年籍(こうごねんじゃく)です。これはすべての国民を豪族の使役者ではなく、国家の一員として登録する台帳です。現在の戸籍の基礎となりました。大化改新のときに掲げた「公地公民」が形となったんですね。
遺跡の発掘などから、この統一的な戸籍は、少なくとも九州から関東まで実施されていたことがわかってきたようです。戸籍によって村落を把握するためには体系的な法律が必要ですね。それが「近江令(おうみりょう)」であったといわれています。近江令がほんとうに発布されたかは確認されていませんが、実際の戸籍制度施行を支えた統一的な法体系はあったということですね。
遷都から4年後、671年に天智天皇は近江大津宮で病気により没します。天智天皇は国際戦争という場面をへて、国をまとめる方向を探っていたリーダーでしたが、このとき、まだ国の形が完全に定まっていません。そこで中央集権を進めるか、豪族の連合国家の形をのこすかをめぐって、今度は倭国全体が二つに分かれて戦うことになったのです。それが古代最大の内乱、壬申(じんしん)の乱の勃発です。
では、次回、その1カ月にわたる激戦をお話ししましょう。
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